浜田省吾「J.BOY」拳を振り上げて歌ってました!

男性ミュージシャン お勧めソング!

浜田省吾 「風を感じて」

浜田省吾

浜田省吾さんをはじめて知ったのは1979年。

 

私が20歳の頃、人気番組「ヤングおー!おー!」で、「風を感じて」を聞いたのが最初でした。

 

「風を感じて」は日清カップヌードルのCMソングとして作られ、「ヤングおー!おー!」のスポンサーが日清食品だったので、よくかかっていた気がします。

 

そして、すでに発売されていた3rd「Illumination」を購入しました。

 

このアルバムは「片想い」、「散歩道」、「ミッドナイト・ブルートレイン」などが収録されていて、私にとっては思い出のある、お気に入りのアルバムです。

 

ただ、ポップなメロディより本格的ロックがやりたかった浜田省吾さんにとっては、当時の方向性に納得がいってなかったみたいですね。

浜田省吾 3rd「Illumination」

浜田省吾 片想い(1978年) 公式

A面

1.「涙あふれて」

2.「グッドナイト・トーキョー」

3.「片想い」

4.「恋人達の舗道」

5.「汐風の日々」

 

B面

1.「25番目の夢」

2.「ガラスの恋」

3.「散歩道」

4.「からっ風のララバイ」

5.「ミッドナイト・ブルートレイン」



大学の頃は大滝詠一、air supplyなども大好きだったのですが、やはり一番よく聞いていたのは浜田省吾さんでした。

 

8th「PROMISED LAND 〜約束の地」まで購入、売上122.3万枚を記録した7th「愛の世代の前に」が最高でした。

浜田省吾 7th「愛の世代の前に」

浜田省吾 悲しみは雪のように(1981年) 公式

A面

1.「愛の世代の前に」

2.「モダンガール」

3.「愛という名のもとに」

4.「独立記念日」

5.「陽のあたる場所」

 

B面

1.「土曜の夜と日曜の朝」

2.「ラストショー」

3.「センチメンタルクリスマス」

4.「悲しみは雪のように」

5.「防波堤の上」


浜田省吾「J.BOY」知るまでに空白期間があったのですが

大学卒業後、就職をしてからは忙しさのあまり、数年あまり音楽を聴かない時期がありました。

(ただ仕事終わりに飲みに行って、家に帰るとそのまま寝てしまう生活をしていたからですが)


はじめて「J.BOY」を聞いたのは、(おそらく)1990年、大阪城ホールで行われた「ON THE ROAD 」ツアーの会場。

 

浜田省吾さんのライブは2回目だったのですが、以前見たものとは全く違う感じで、その迫力に圧倒され、やりたかった社会派ロックとはこれだったんだと感じました。

 

それと同時に、「J.BOY」が発売され、すでに4年ほど経っていたので、知るまでに空白期間があったことが悔しくてなりませんでした。

浜田省吾 私のお気に入り3曲は?

① jboy(1986年) 公式

② 路地裏の少年(1976年) 公式

もうひとつの土曜日(1985年) 公式

3曲目は「片想い」とどちらにするか悩みました。


すべて自分がカラオケで歌う曲になってしまいました(笑)

 

特に「jboy」は盛り上がってから、みんなに「J」と呼んでもらい、拳を振り上げ熱唱していました。


「jboy」について

果てしなく続く生存競争 走り疲れ

家庭も仕事も投げ出し 逝った友人

そして おれは心の空白 埋めようと

山のような仕事 抱えこんで凌いでる


「J.BOY」とは浜田省吾さんの造語で、「Japanese Boy」という意味になりますが、“いつまでも子供の日本” というニュアンスも込められていると言われています。

 

プライドを見失い、理想からも遠ざかってしまった一人の青年の心情が歌われているのですが、1986年はバブル景気の始まりの年で、異常な好景気に向かって突き進んでいく時代にあって、「本当の豊かさとはなんなのか」と警告、“頼りなく豊かな国”と皮肉っています。


80年代の若者の海外、特にアメリカへの憧れが強い風潮に対して、反骨的なナショナリズムの匂いがします。


浜田省吾 関係性のあるアーティスト

Wikipediaから引用

あいみょん

音楽関係の仕事をしている父を通じ浜田省吾の影響を受け、アルバム『My First Love』が彼女にとって初恋の音楽であったと語っています。

 

2019年1月17日に行われたチャリティーコンサートに招待され、終演後浜田の楽屋に訪れ初の対面を果たしました。

 

本人曰く、「好きな人に告白するくらい緊張し、泣き顔で2ショットを撮影した」、「その後感情のままにツイートしてしまった」と後日語っており、浜田からは「また同じ土俵で会いましょう」という言葉を掛けられたと言ってます。

 

尾崎豊

浜田に影響を受けたことを公言しています。

 

1996年のインタビューで浜田は、1986年、ニューヨークで尾崎と辻仁成と共に食事をした後、TDを終えたばかりだったアルバム『J.BOY』を2人に聴かせた際、尾崎は「このアルバムって僕のことを歌ってるみたいだ」と語り、それに対し浜田は「そうだよ、君のことだよ」と答えたことをよく覚えていると回顧しました。

 

完成したアルバム『J.BOY』を初めて聞いたのはこの2人だったと言っています。

 

甲斐よしひろ

1978年に甲斐がリリースしたカバーアルバム『翼あるもの』には、浜田が作詞作曲した『あばずれセブンティーン』が収録、甲斐バンドの代表曲『安奈』のアコースティックギターは浜田がノーギャラで演奏しているなど、多くの親交を伺わせるエピソードがある。

浜田と甲斐はデビュー時から交友があり、よく新宿ゴールデン街で飲み歩いていたという。

浜田の結婚披露宴に甲斐が音楽関係者としては唯一出席し、「結婚したらロックはできなくなる」というスピーチをし、浜田はそれに「面白いことを言うヤツだな」と思ったという。

 

桜井和寿(Mr.Children)

同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。中学時代からマネをして歌っていた。雑誌での対談やステージ競演も行っています。

 

ap bank fes '05では浜田の演奏終了直後、『HERO』の歌唱中に桜井が感極まり、泣きながら歌っていたことなどその影響の大きさを窺い知ることができます。

 

桜井は『HERO』の歌詞について、「『小さい頃に身ぶり手振りを真似てみせた』というところと、中学時代に浜田さんを好きで真似ていた自分と重なった」と語っています。

 

スピッツ

自らの所属事務所であるRoad&Skyグループの傘下、「GrassHopper」に所属。

 

1995年のシングル「我が心のマリア/恋は魔法さ」で共演してしています。

 

まだほとんど売れていなかったメジャーデビュー時からスピッツの音楽性を高く評価しており、「ロビンソン」で彼らがブレイクしたときには「自分のことのように嬉しい」と述べています。

 

時任三郎

1980年代からの交友があり、1985年には「WALKIN' IN THE RAIN」という楽曲を提供しています。

 

1986年、渋谷パルコ スペース・パート3で毎年行われていた時任のコンサート「ザ・ライブ」に友情出演。

 

2005年には「I am a father」のプロモーション・ビデオに時任が出演しています。

 

福山雅治

同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。

 

2005年6月26日『福山雅治のSUZUKI Talking F.M.』では、1994年にツアー中であった2人が名古屋の味仙で初対面したことや、お互いの恋愛観、結婚観について浜田と対談を交わしました。

 

自身のラジオ番組『福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオ』のコーナー「魂のリクエスト」で浜田の楽曲をカバーする他、自らのカバーアルバム『魂リク』ではMidnight Blue Trainを収録しています。

 

吉田拓郎

同じ広島出身であり、「広島フォーク村」の先輩でもあります。

 

浜田にプロデビューのきっかけを与えた恩人です。吉田は自らのコンサートツアーに、浜田がドラムとして参加していた「愛奴」をバックバンドとして引き連れていました。

 

当時の音楽番組のいくつかの映像で、浜田がドラムを叩いている様子を見ることが出来ます。

  

山下達郎

同期デビューで同学年(山下は1953年2月4日生まれ)。

 

音楽性は違うが、互いの音楽を評価し、それぞれのファンクラブ誌上での対談やステージ競演も行っています。

 

山下の妻である竹内まりやを含め、プライベートでも交流があります。