演歌・昭和歌謡・歌謡曲(女性) お勧めソング!
山本リンダ プロフィール
生年月日:1951年3月4日、出身地:福岡県北九州市
アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフで、1962年、11歳の時にファッション誌「装苑」の専属モデル合格を機に、少女ファッションモデルとして活動を開始。
1966年、15歳の時にシングル「こまっちゃうナ」で歌手デビューすると、100万枚超のヒットとなり、アイドルとして人気を博し、翌年にはNHK紅白歌合戦に出場します。
以降、「どうにもとまらない」、「狂わせたいの」、「狙いうち」などヒットを連発、70年代の歌謡シーンを華やかに彩ります。
また、舞台などにも出演、その後、幾度かの“リンダブーム”が再燃、他アーティストのカバーなど、長きにわたり活躍をします。
山本リンダ 厳選ソング! 代表曲・ヒット曲
「こまっちゃうナ」
こまっちゃうナ Fuji Music ch
1966年9月発売のデビューシングルです。
作曲・編曲:遠藤実
累計70万枚を突破するヒットとなり、初出場をした「第18回NHK紅白歌合戦」ではピンクのミニスカートで歌唱。舌っ足らずでキュートな歌声もあわせて、一気に注目されるようになります。
遠藤実さんは「ミノルフォンレコード」を立ち上げますが、会社経営のノウハウも知らず、ヒット曲が無くなり、また看板歌手がいなかったため、「困った」日が続いていました。そんな中、最初にリンダさんに会った時、「君はボーイフレンドはいるの?」と質問したところ、「そんなのリンダ、困っちゃうな」と返答されたのがヒントになりました。その「こまっちゃうナ」は当時の遠藤実さんの心境そのものでした。
「狙いうち」
狙いうち 山本リンダ - トピック
1973年2月発売の23枚目のシングルです。
作詞:阿久悠、作詞:都倉俊一
冒頭は最初「ラララ ラララ…」でしたが、インパクトが弱いとの理由で阿久悠さんが「ウララ ウララ…」に代えたところ、振り付けとともに大ヒットに。
「狙いうち」という名前が、野球でボールをヒットさせることを連想させ、阿久悠さんがOBである明治大学の応援団が「チャンステーマ」として導入したことから高校野球でもお馴染みの応援歌になります。
「どうにもとまらない」
どうにもとまらない
1972年6月発売の20枚目のシングルです。
作詞:阿久悠、作詞:都倉俊一
路線を変更し、切れ目の入ったパンタロンに赤いブラウスによるヘソだしルック、過激な振り付けなどを披露して、アクション歌謡の先駆けとなります。
累計で30万枚を突破した最大のヒット曲で、第14回日本レコード大賞作曲賞、日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞します。
サンバのリズムであった為、阿久悠さんは最初「恋のカーニバル」というタイトルを付けていましたが、「どうにもとまらない」に変更。後に、”タイトルが「恋のカーニバル」だったら、この曲の運命は全く違っていただろう”と述べています、
発売当初、大人の男性をターゲットにしてプロモーションを行っていましたが、レコードが発売になると、レコード店の前に行列を作っていたのは子供たちでした。激しいリズムに乗ってテレビに登場した山本リンダさんに、子どもたちは視覚と身体で反応し、そしてアクションを真似たことがブームとなります。
「じんじんさせて」
じんじんさせて Fuji Music ch
1972年11月発売の22枚目のシングルです。
作詞:阿久悠、作詞:都倉俊一
ノリの良いロック調の曲で、 売上ランキング10位を記録したヒット曲です。
「きりきり舞い」
きりきり舞い 山本リンダ - トピック
1973年12月発売の26枚目のシングルです。
作詞:阿久悠、作詞:都倉俊一
ライトな曲調の楽曲で、オリコンチャートは最高28位
を記録。
後に、近田春夫さんが編曲をし、自らのバンドでカヴァーします。